屋形船はゆっくりと向きを変えるところだった。水面をうねり滲む提灯の窓から、開け放たれた笑い声が聞こえてくる。声は幾つか結び合って言葉になったようだったが、それが何か理解する前に、船は向こうを向いてしまった。私の前を行く人は立ち止まって、欄干から手を振り出した。気付く者があるだろうか。私も何とはなしに立ち止まり、ぼんやりと川を眺めた。
「貴方あれに乗ったことがありますか」
「いえ無いのです。屹度船酔いが酷いでしょう」
「何具合が悪くなる前に酔っ払ってしまえば良いんですよ」
「アハハ……それは名案ですね」
「好いもんですよ。そうだなあ、何んにも判らなくなった頭で川を下る水音を聞いているとね、生まれる前の赤子が何処かへ運ばれていくような気分でさあ」
ゆらゆらと船は夕焼けの方へ流れていく。眩しい斜陽の合間に上野が見えた。「ああ、」あの上野を越えて、本郷迄帰らねばならぬのか。何だか他人事のようだった。けれども私はその人に別れを告げて再び歩き出す。浮かび上がってくる路上の赤提灯をかわしながら暫く歩き、入谷で地下鉄に乗り込んだ。(吾妻橋、要修正)